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中南米雑貨店「カスカーダ」@牛久 (2) 岩崎克司さんの半生



茨城県牛久市を拠点に、ラテンアメリカと日本との架け橋として活動する、岩崎さん


パラグアイと日本 二つの母国で

 1958年にパラグアイのサン・ロレンソで生まれました。私の両親は戦前にパラグアイで最初の日系移住地だったラ・コルメナに移住し、おもに綿花の栽培をしていました。


 近くに学校がなかったため、学齢期になると首都アスンシオンの学校に入り、平日はその近くのアパートで生活をしていました。日系移住地には子どもたちのために建てた日本語学校があります。私は小学校ではスペイン語で授業を受けていたため、日曜日は日本語学校へ通いました。けれども当時はそれほどしっかりした授業をしていたわけではなく、友達に会いに行くという感じでしたね。週一回なので、そのときは覚えた日本語もすぐに忘れてしまいました。

 小学校卒業と同時に両親のすすめで10歳年上の姉とともに日本に渡りました。私は短期間だけ日本に滞在してパラグアイに帰るつもりだったのですが、両親は私に日本で教育を受けさせたいと考えていました。愛知県の小学校へ転入する手続きがとられ、私は1学年下の小学6年生になって、親戚の家から通学しました。


ラ・コルメナ移住地で、両親は綿花栽培をしていた。


言葉がわからない学校生活と、一目置かれたサッカー

日本語がわからないなかの学校生活はそれは大変なものでした。いじめみたいなものもあったのかもしれません。同級生から何か言われることはありましたが、それが励ましてくれているのか、ばかにしているのかもわからない状態でした。読み書きがとくに難しくて、 テストのときには先生が問題を読み上げ、それに対して私が口頭で答えるという具合でした。唯一救いだったのはサッカーが得意なことでした。パラグアイはサッカーがさかんですし、大自然のなかで育ったので体力がありました。サッカーを指導していた先生から目をかけてもらいました。

 高校時代は一日6時間勉強をして、京都外国語大学のスペイン語学科に入りました。スペイン語はネイティブ並みにできたので、学生のうちから企業の通訳の仕事をしました。そのときに担当したある仕事が縁で、大学卒業後は医療機器メーカーに就職しました。ちょうど中南米市場を開拓しようとしていたときで、その営業担当となりました。

・病院にも行かれない人々  医療通訳の確保が必要

 以来、ひんぱんに中南米と日本を行き来しています。文化がちがう国同士でビジネスをするのは、難しい面もありますが、私の場合は現地の風土や生活習慣も知っている。それが役に立っています。

 2014年からは医療通訳ボランティアをはじめ、現在はその講師もしています。茨城県にも中南米の出身者が多く暮らしています。けれども言葉がわからないために病院へ行くことを躊躇してしまい、いざ病院へ行ったときには手遅れになっているケースが多いのです。


 ボランティアでも救命救急センターでつききりになることもあります。医療通訳はさまざまな言語で求められていますが人材が足りません。人手を確保するためにも、待遇の改善が必要だと思います。学校などで南米の文化について話をすることもあります。授業のなかだけではなくて、いつでもパラグアイの物に触れられる場所として、カスカーダをオープンしました。ぜひたくさんの人に来てもらえたらと思っています。



パラグアイの伝統衣装「ニャンドゥティ」は、カスカーダで取り扱っています。

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中南米雑貨「カスカーダ」 facebook: https://goo.gl/q4DsvH 住所:茨城県牛久市中央4丁目6-4 中村ビル102 電話: 029-874-2055

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